井上成美 (新潮文庫)

井上成美 (新潮文庫)

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新潮社
価格: ¥820

井上成美 (新潮文庫)のレビュー

国敗れて名をなした提督の生きざま
 仮にあの戦争で日本が勝ったならおそらく袋たたきに遭ったであろう独特の戦略眼をもち、一貫して日独伊三国同盟反対の急先鋒だった人物である。戦後はひたすら隠遁生活に徹するも、あまりの悲惨ぶりに、かつての教え子たちが遠慮がちに支援方策を構築。著名人訪問の際は、理路整然と自説を論じ、海兵クラス会の異端児ぶりも発掘する等、広範な取材によって構成された力作と思う。
善玉海軍説の虚構本
井上という人は確かに偉かったかもしれませんが、どこの組織にもいる外れ者で、実際に何かをやったわけではありません。
確かに戦後源田実のように自らの犯罪を隠してうまく立ち回った人間よりはましかもしれませんが、何も言わなかったことも歴史にとってはマイナスです。
この本は作者が善玉海軍説を広めるために井上の話のいいとこ取りをして、針小棒大の脚色をしたに過ぎないおとぎ話といってもいいと思います。
ちなみに、あまり知られてはいませんが井上は特攻兵器を統括する、マル特委員長でした。これについては「激闘駆逐艦隊」倉橋友二郎朝日ソノラマ刊1987年に明記されており、信憑性は高いと思います。そしてこの本には、「激闘駆逐艦隊」の記事がそっくり引用されていますが、なぜか「「まるとく」委員の位置に職務柄ついていた次官としては」という重要な一節が抜いてあるのです。
阿川が井上が特攻に関係していたと思わせたくないから、作為的に抜いたんでしょう。
この一事をもってしても、不利なことは書かないという姿勢が見え見えです。
若いころは感動しましたが、いろいろな知識を積んだ今となってはこのような本はあまりお勧めできるものではありませんね。
灯台元暗
 阿川弘之氏の、海軍三部作の一つですが、横須賀鎮守府の傍に居乍ら、寡聞にして知らなかった事多し、忸怩たるものあります。
 最近の自衛隊(国軍かな)の、元航空最高幹部の、妄想みたいな作文(論文・著作ではない)を見るにつけ、歴史から学ぶ姿勢を正しくしなければならないと、思います。
 阿川氏の、同じく「米内光政」・「山本五十六」も、面白く読み直しました。米内光政曰く(だそうです)、同じ本、三度読まなければダメとの事。自戒。
戦後60年を過ぎて
太平洋戦争についての本は多々出版されていますが、その中で、戦前も戦中も面と向かって戦争に反対しつづけた軍人はいたのだろうか、と思っていたときに探し出した本でした。
「どうしてあの戦争は起きたのか」「あの戦争の最中何が起きたのか」についてはよく話られます。しかし、「あの戦争を止めるには人はどういう視点に立つべきだったのか」について、当時の視点から語られることは、あまりないのではないでしょうか。
そしてそれは当時の世界と日本の状況を熟知し、太平洋戦争に理論的に強固に反対し続けながら軍に所属し、戦後も生きた井上成美の生涯を軸にすると、見えてくる気がするのです。
恐るべき視線を描く恐るべき筆
井上提督が世に埋もれ、その肉体は消滅し、世上記憶も風化しつつある今もなお、提督の透徹した視線を感じる。提督が見た日本社会の構造も歪みも、民情風俗の在り方も、未だ改善され、超克されてはおらぬばかりか、宿痾となって益々害毒をふりまきつつある。我々は未来を信じた提督に慚じねばならない。我々は提督に見られている。

透明な文体で提督を描く阿川の閑かな筆先には烈々たるものが宿っている。筆を鑿(のみ)に虚空を穿ち、そこに充満する提督の視線を抉り出す。阿川の全存在を賭けて恐るべき英傑の視線を体する。烈々たるものの宿らぬはずがない。伝記を越えた巨編をものし得たのも、その為であろう。

近代日本がそこにある。現代日本がそこにある。分析され、綜合された形でそこにある。『井上成美(いのうえせいび)』を推す次第である。